びっくりした!

二週間前の月曜日、亀のジェニーの水槽を洗おうといつものように容器を傾けて水を流していた時、見覚えのない繭のような白いものが水と一緒にころころと転がっていくのが見えました。

この二日前にも水槽を洗っていたはずなのに水の汚れが今回は激しいな、と思ってはいたのですが突然気づいたのです。

これは、卵だ!!

ジェニーが卵を産んだのだ、と。

ところが一瞬の感激もつかの間、無情にも卵は水と一緒に排水溝の小さな穴の中へと落ちてしまったのです。

せめて写真を撮りたかった、、、

ジェニーを飼い始めて約一七年。

いったいいつ大人になるのかと思っていましたがついにその日が来たのだと感激しました。

そこですぐにネットでゼニガメの産卵について調べてみました。

そこには「だいたい五歳くらいで産卵する」との情報が。

そっか、、、

ジェニー随分のんびり大人になったのね、、、

飼い主に似たのかしら、、、

亀でさえこんなに個体差があるのですから人ならばなおさら。

それぞれのペースで焦らず、確実に大人の信仰者へと成長していけますように!

(小山晶子牧師夫人)

印象深いうた

私たちにはこれまでの人生の中で、「忘れられない歌」というものが一曲はあるのではないかと思います。

最近聴いた曲はどんどん忘れていくのに、幼いころ覚えた歌はいくつになっても忘れない、という場面はしばしば目にします。

わたしにとって印象深い歌というのはたくさんあるのですが、特に中学一年生のころ英語の授業で聴いたジョージ・ハリスンの「バングラデシュ」という歌はずっと心に残っていました。

それまでは日本の歌謡曲しかほとんど聞いたことがなかったのですが、あの何とも言えないけだるい声とマイナーコードで歌う雰囲気は今まで聴いてきたものとは全く違う衝撃がありました。

いま、図らずもそんなバングラデシュに関わる機会が与えられていることに、あの衝撃にも私の人生における神様の指紋を見ている気がします。

今年いっぱいでHOP現理事が入れ替えとなりますので、新理事選定にあたり神様の導きと助けがありますようにお祈りいただければと思います。

(小山晶子牧師夫人)

紅海のおもいで

ビブリオン(聖書を学ぶ会)ではいま出エジプト記を一章ずつ学んでいます。

教会学校の教材も最近ずっとモーセについてだったこともあり、私の頭の中もかなりエジプトな感じになっています。

30年近く前、はじめてエジプトに行ったとき紅海が紅い海ではないことにとても驚きました。

それは今までに見たことがないほど、透明で美しい水をたたえた海の姿だったのです。

訪問が夏だったこともあり、青空と眩しい太陽の下できらきらと輝く水晶のような海の景色は一瞬自分がどこにいるかを忘れてしまいそうになるほどでした。

そんな海辺で宿営していたイスラエルの民は、きっとこの時の私と同じようにその美しさに感動したのはなないかしら、とふと思いました。

ようやく脱出できたという安ど感をもしかしたらここで初めて感じることができたのかもしれません。

しかし、ほっとしたのもつかの間、ファラオの軍勢がイスラエルの民に襲い掛かってきます。

映画「十戒」の最も印象的な場面を思い出しつつお別れしましょう。

さよなら、さよなら、さよなら。

(小山晶子牧師夫人)

リトリート

新型コロナの影響とともに、最近暑くなってきたこともあり窓を開けて過ごすことが増えてきました。

幹線道路沿いということもあり、開けた途端様々な音のシャワーにさらされます。

車の通行音はもちろん、クラクション、ドアの開閉、人の話し声、鳥の鳴き声、救急車、ヘリコプター、靴の音、バイク、軍用機、、、

起きている間無音の時間は一秒もありません。

発達障害の特性として聴覚が過敏なこともあり、様々な音にさらされてしまうと本当に疲れます。

聖書を読むと、イエス様も頻繁に静かな場所、一人になれる場所に退かれたことが分かります。

一人になることは一見孤独になるように感じますが自分自身を取り戻すための時間、神様の声だけを聴く時間だったのだと思います。

まさにリトリート(回復・避難)の時間をイエス様でさえしばしば必要としていたということです。

私のように実際の「音」に過敏でなくてもネットやテレビからあふれる様々な「声」につかれている人も多いでしょう。

全ての電源を消し、リトリートに時間を持つことは、あなたを守ります。

(小山晶子牧師夫人)

使徒 26章

「こういうわけで、アグリッパ王よ、私は天からの幻に背かず、」(26:19)

パウロのポイントは「天からの幻」に従順したということでした。

「天からの幻」とは、第一にイエス・キリストの顕現です。

そして、「異邦人の使徒」としての召命です。

私たちも「天からの幻」(ヘブンリービジョン)に生きることが大切です。

「幻がなければ、民は好き勝手にふるまう。」(箴言29:18)とありますが、私たちは「天からの幻」が必要です。

私たちは今、「天からの幻」を神の御言葉である聖書からいただくことが出来ます。

パウロに与えられた

それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。」(18節)

という「天からの幻」は、

キリスト教会に与えられた「天からの幻」

でもあると思います。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げ、「天からの幻」に生きましょう。

※ 本日のSSCの主日礼拝も、三密にならないよう、第一礼拝(9時)と第二礼拝(10:25)に分散しての出席をお願いします。第二礼拝はライブ配信されます。(18時からの第三礼拝は自粛中です。)
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ふたつのリアル(現実)

引用

聖書箇所: ヨハネの黙示録 4章1節-11節

タイトル: ふたつのリアル(現実)

#栄シャローム福音教会 #礼拝 #御国が来ますように

2020年12月27日 栄シャローム福音教会 主日礼拝

今年は静かな年末年始ということですが、静まって神を知る時とするチャンスでもあると思います。

「今は恐れの時ではない。信仰の時です。」

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カルテット・べセル

今回は体調不良の小山牧師婦人に代わり、わたしがどのようにカルテット・べセルを結成するに至ったかということを少しお分かちさせていただきます。カルテット・べセルは栄シャローム福音教会で四月二十六日に、コンサートを行う予定でした。残念ながらコロナの問題で十月に延期となってしまいました。二年前の夏に私は今のカルテットメンバーで演奏をし、福音を伝えるという夢を見ました。メンバーの顔も鮮明に出てきました。その時は何の意味をなしているのか分からず温めておりました。しかし半年後に同じ夢を見たのです。これは神様からの導きと感じ、今のメンバーに急いで連絡をとったら皆快諾してくれました。そして昨年四月に顔合わせをし、話す中で、以前大川先生にいただいた「福音の為に何でもする」「人にはできないことも神にはできる」という私のモットーでもある言葉が心に強く迫ってきたのです。この言葉を通して神様が与えてくださった福音を伝えるためのカルテットなのだと確信しました。主をほめたたえます。(小山勇児)

YouTubeチャンネルは、こちら

https://www.youtube.com/channel/UCNfOL-ZlGuUkpTf603Hm7dg?view_as=subscriber

まじめなはなし

いつまでつづくんでしょう。
先日の祈祷会の最中、こう問いかける私に対して神様はとてもはっきりと応えてくださいました。
「人がわたしに降参するまで」。
それは、打ち消すことができないほど明確な言葉でした。ああ、まだしばらく続くのだなあと打ちのめされたような気持になりました。神様の語りかけを反芻する中で一人の人物を思い出しました。エジプトのパロです。どんなに厳しい状況になっても決して神様に屈しないという態度。神よりも偉大だ、と言わんばかりの「人間力」という言葉で解決してしまおうとする姿勢。「罪」という言葉は的外れ、という意味ですが神様を無視した生き方はどんなに素晴らしく装っても「罪」です。人が神様を無視し続ける限りこの状況は変わらないどころか悪化していくでしょう。わたしたちキリスト者も襟を正し、破れ口に立ってとりなし、私たち自身もまた主の前に悔い改める必要があると思います。厳しい言葉を綴ってしまいましたが、受け止めていただければと願います。
(小山晶子牧師婦人)

ジャスミンンの生命力

ずっと気になっていた道路沿いのジャスミンの茂みを、二週間前のビブリオン後姉妹方と共にとうとう思い切って伐採しました。ものすごい葉の量で根本もどこかわからない中格闘すること数十分、見えてきたのはわずか三株の茶色い枝の塊のようなものでした。花の香りは好みが分かれるところだと思いますが、私はジャスミンの香りが大好きです。この香いいな、と思った香水や芳香剤にはたいていジャスミンの香りが入っていますし、古代エジプトではすでに栽培されていたということもエジプト好きの私にとっては重要な好きポイントです。さて、根元まで刈り込まれた教会のジャスミンがその後どうなったか気になって昨日見に行ってみました。驚くことに新芽が枯れた枝のようなところからたくさん出てきていたのです。『エッサイの根株から若枝が出て、、、』という御言葉を思い出しました。新芽が出る様は新しい始まりを予感させる、希望を感じる場面であることを、
ジャスミンを通して感じた、梅雨の晴れ間の午後の出来事でした。
(小山晶子牧師婦人)

食べたい気持ち

自粛生活はひとまず終わったものの、以前とは違う生活は相変わらず続いています。エスカレーターでは数段前の人と間隔をあけ、入店の際には除菌や検温。隣のカウベルも持ち帰りを始めました。海外への渡航も国内の移動もまだまだ以前のようにはいきません。いろんなことを考え始めるとなんだか寝付けなくなってしまい、仕方ないので「コロナが終わったら食べに行きたいもの」を考えてみました。まずはやっぱり明石焼き。夏なので鱧の梅肉ソースいいなあ。観音屋のチーズケーキ、下村の焼きアナゴ、寿司清のお寿司。考え始めるとおなかがすいてさらに眠れなくなり、そうか、県をまたいだ移動が解除されたら帰省すればいいんだという結論に達しました。
獄中で自由を奪われて過ごしていたパウロは行きたくてもいけない、というもどかしさの中で手紙を書きました。そこまで厳しい監視下にはないにせよ、私たちもその苦しさは体験したのではないかと思います。気持ちを追体験するうえで、今がパウロの獄中書簡(ピリピ、コロサイ、エペソ、ピレモン)を読む良いチャンスかもしれません。    (小山晶子牧師婦人)