Biography

1992年に塚田 献(つかだ ささぐ)を除いたメンバー5名は18もしくは19歳で東京基督教大学(千葉県印西市)に入学しました。全寮制であったため皆キャンパスの敷地内にある寮で生活をしていました。 入試以来、親しかった宮脇栄子(みやわきえいこ 旧姓・若林)と小山晶子(こやまあきこ 旧姓・佐竹)はときどき大教室や食堂で授業の帰りなどに賛美をしていました。そんな1年生のある日、宮脇が(かなりドキドキしながら)はじめて自分でつくったという賛美を小山に聞かせました。分かりやすく誠実な賛美に実はこのとき小山は感動していました。その後、飯塚(いいづか)めぐみ、具志堅千登勢(ぐしけん ちとせ)が加わりリラの原形である4人のメンバーが集まりました。

いくつも曲が出来上がっていく中で、これをテープにとってみたらどうか、と大将(同級生)に提案され、翌年6月、小山の姉の結婚祝にプレゼントするためとして最初のテープを作ることとなりました。最初に収録したのは『私が生まれる前から』でした。このテープはメンバーにとっても幻のもので、『空』をアカペラで歌ってみたものもありました。また、塚田と青木信太郎(あおき しんたろう)が加わる以前の女性だけのグループとして、最初で最後のテープとなりました。 リラに転機が訪れたのはその年10月に行われたTCIの修養会のことでした。リラの賛美に感動した塚田が、面識もないリラメンバーに一緒に賛美したいと申し出て、リラに男性メンバーが加わることとなりました。与えられた機会に賛美をささげること以外、何も考えておらず、特別な計画を立てていたわけでもないのですが、塚田との出会いによって図らずも曲の幅が広がりそれによって自然と現在のようなパートが出来上がっていきました。その中で更に男性メンバーが必要となり、塚田と仲の良かった青木が加わりました。青木はリラに加わったにもかかわらず、初めはいつもよそよそしく、メンバーというより1リラファンのようでしたが、こうして今の6名の『リラ』が何となく誕生したのです。名前がついたのはTCUの学園祭の直前だったと思います。竪琴、という意味もありますが、ライラックの花、という意味もあります。いずれにしても素敵な名前なのですがメンバーの反応はいまいちでした。けれども他に候補もなかったのでけっきょく「LYRE」に決まりました。シオン祭(学園祭)でステージに立ってはじめて行ったコンサート。霧雨の降る寒い日でした。

その後もかなりのスピードで新しい曲が生まれていきました。けれども『神学生』という事もあり、学園の枠を超えて活動する事はありませんでした。

1995年1月17日。誰もが心を痛めたあの阪神大震災が発生しました。遠く離れた千葉にいて、何も出来ないもどかしさを感じる日々が続きました。私たちができることといえばただ心配する事と祈る事、それだけでしたが、ほんの少しでも力になりたいという思いから『LYRE1995』をつくりました。そのテープを販売し純利益を義援金として送る事にしたのです。 卒業の年の夏には、沖縄に招いて頂き賛美をささげ、その中で「夏の日」、「風歌」が生まれました。その他にも多くの教会で賛美をさせて頂き、メンバーの絆も強くなったときでした。そして、卒業式の日に、思い出が詰まった食堂でコンサート(最後のつもりだった)を行い皆それぞれのところへ散って行きました。多くの友に手伝ってもらって完成した「思い出」のアルバムを携えて。が、しかしそれぞれの地で多くの経験をしながらメンバーは「LYRE」に励まされてきました。
そしてそれはメンバーだけではなかったようで、卒業コンサートから3年を経て新たなアルバム製作への道が開かれていきました。

3日間、それがLYREに与えられたレコーディング期間でしたが、新しいサポーターも現われ、多くの祈り支えてくれた人たちの励ましもあり『LYRE1999』が完成しました。 それから2年後の2001年、さらに3枚目のアルバムをライフ企画製作のもと、作ることとなりました。メンバー同士離れていて、また限られた時間であったので大変な作業でしたが、専念できる環境を作ってもらい感謝のうちに終える事が出来ました。本格的な機材など、驚きの連続でしたが楽しいときでした。そしてこのアルバム 『LYRE2001 いつもともに』は2001年のCCM大賞のアルバム部門の金賞をいただきました。ほんとに多くの恵みの中にあったLYREの歩みです。

これが「りら」の大まかな歴史なのです。

(この文章は2001年行なわれたリラ10周年記念コンサートで配布したパンフレットに加筆したものです。)